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いつも心にデカダンを。

【映画】『二十四時間の情事』(1959・フランス/日本)

二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール) HDマスターDVD
 

 (企画・戦争をめぐる映画/旅 第一部 アウシュビッツ、カティンの森、そしてヒロシマ― ⑧)

監督:アラン・レネ 脚本:マルグリット・デュラス 撮影:サッシャ・ヴィエルニ 高橋通夫 音楽:ジョルジュ・ドルリュー 編集:アンリ・コルピ 出演:エマニュエル・リヴァ 岡田英次 他

あらすじ

反戦映画の撮影で広島を訪れた1人の女優。ある日本人と行きずりの恋に落ちるが、女には戦争で負った深い傷があった--そして日本人にも。

女は翌日にはフランスへ発つ。だから、これは24時間限りの情事:ベッドで、町で、キャバレーで。ヒロシマのあらゆる場所で、恋人たちは自らの傷を語る。

男と女(ヒロシマ/ヌヴェール)、レネ/デュラス、記憶/忘却

1.男と女(ヒロシマ/ヌヴェール)

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物語はいだきあう肉体のショットで始まる。睦み合っているようで、どこか苦痛に悶えているようでもある。この映像が示すように、本作はロマンスの形をとりながら、かつてファシズムが席巻したヨーロッパ世界を1人のフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)に、ヒロシマとその名が示す惨禍をある日本人の男(岡田英次)に託し、2人が出会うことでヒロシマを初めとする『表象不可能な』戦争の記憶を呼び覚ます映画である。

Tu n'as rien vu à Hiroshima. Rien.(きみはヒロシマで何も見ていない。決して)

J'ai tout vu, tout.(いいえ、見たわ、全て)

占領下のフランス・ヌヴェールでドイツ人を愛した女と、出征中に広島への原爆投下で家族を失った男。男は「ヒロシマ」の当事者でありながら、多くを語らない。むしろ出来事の外部に留まっているようなそぶりがある。女に「きみは(ヒロシマを)見ていない」と否定するのは、男もまた「見ていない」からだ。一方、フランスから来た女はある「絶対的な」(※1)経験―敵国人との恋とその喪失―をもってヒロシマを「視る」。

強烈に愛し合いながらもふたりの会話は平行線を描くが、女の過去をたどり、いやし難い傷口の輪郭をなぞることで、女はヌヴェール(という名前の愛)を忘却する。男の方は、ヌヴェールの出来事を経由して初めてヒロシマ(という形の人生)を自身に取り戻す。個と個の愛と忘却によって、語り得ぬ戦争の集合的記憶もまた救済されたのだ。

(※1)''ひとりの娘が祖国の公の敵を真の愛をもって愛してしまったという理由でその娘を丸刈りにするということは、恐ろしさという意味でも愚かしさという意味でも、ひとつの絶対である ''『ヒロシマ・モナムール』マルグリット・デュラス、工藤庸子訳、河出書房新社、2014.

2.レネ/デュラス

『夜と霧』(1956)が高い評価を受けたことで、プロデューサーのアナトール・ドーマンがレネにもう一度戦争の映画を、ヒロシマをテーマに作ろうともちかけたことが本作の発端である。脚本はドーマンのすすめで一度サガンに打診されたが断られ、その後レネの希望でデュラスの名が挙がった。この選択によって、一筋縄ではいかない「記憶の映画」が実現したことに疑いの余地はないだろう。

『夜と霧』によって記憶への強い関心を表明したレネと、度重なる記憶の変奏によって作品世界を拡げたデュラス。すでに小説『モデラート・カンタービレ』で人間をえぐり出す会話劇を編み出したデュラスは、本作では少ない台詞に個人の記憶を語らせることで、レネの映像に逆説的な強い普遍性をもたらした。そしてフラッシュバックで過去を慎重にさかのぼるレネの段取りは、しかしデュラスに仕組まれた時系列の前後する女の語りや、鏡に映る自分との唐突な対話で心地よく乱される。ふたりの作業は綿密なやり取りによって決定されたが、同じ方向へ互いに寄り添うというよりはむしろ垂直くらいに交わっているようで(まるきり反対だと決裂してしまう)、お互いの限界をぎりぎりの場所から拡げ合っているようにさえ見える。

3.記憶/忘却

どれほどいやし難い記憶でも、時間が否応なしにひきはがしてゆく。そしてある種の記憶に対する「忘却」は、それ自体が苦痛と恐怖をともない人の体に忍び込む。ここではひとつの愛に対する「忘却の恐怖」への執拗な語りが、ヒロシマの出来事への「忘却の恐怖」をも観る者に想起させる。その象徴であり、想起させる装置であり、劇中でヒロシマの当事者たる男はこの点でも女を否定する(''きみは忘却を知らない'')。しかし彼もまた記憶を生き埋めにして忘却を「無視」しようと務めてきたことは、彼自身の少ない語りからも明らかだろう。そして出来事のあとも生きてゆくために適切に埋葬されなかった記憶を呼び起こすには、それが男であれ女であれどこの土地の者であれ、ただ愛だけが必要なのだ。

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この大きな瞳、忘れがたい眼差しを持つ(※2)エマニュエル・リヴァほどこの役に適した女優はいなかっただろう。自身の中に乱立しいまだ統合する手立てのない記憶を抱えて、純粋さと知性と疲労が入れ替わりにリヴァの顔に現れる。この顔、語り、あらゆる彼女の演技によって、最終的にはリヴァ自身が「記憶」それ自体の表象になってしまった。

そしてその語りがいよいよ神話めいてくる経緯では、ライティングの妙とロケーションの奇跡についても言及するべきだろう。語る者に強くあてられる照明は、それが深い内面の開示であるとともに、語る者が喪失者たちの運命の代弁者であることを示唆している。そして喫茶「どーむ」、キャバレー「カサブランカ」それぞれが当時実在し、この映画の重要な風景を占めた意味は大きい。ひなびた店のたたずまいが土地の匂いをはっきりとスクリーンに残した一方で、内部は大映が制作した巧みなセットにより、現実にいながら記憶をさまようこの映画の特殊な空間の表現を可能にした。

(※2)''ある意味では彼女のことも≪ザ・ルック≫と呼べるかもしれない''『ヒロシマ・モナムール』マルグリット・デュラス、工藤庸子訳、河出書房新社、2014.

稀代の「記憶の映画」、随一の「記録の映画」:HIROSHIMA 1958

ファシズムやヒロシマの悲劇を個人の語りから集合的記憶に引き上げながら、愛の復活と忘却、記憶の救済が行われる経緯をスクリーンにうつし出し、それをまた観る者に記憶させる。本作は観客を巻きこみながら、ヒロシマとヌヴェール、そして恋人たちの愛の記憶と忘却を増殖させてゆく果てしのない「記憶の映画」である。その一方で、『夜と霧』でレネが目指した純粋な記憶の保持が、はからずも物語と同時に行われていることに観る者は気づく。前述した「ドーム」「カサブランカ」など固有の場所はもちろん、反戦映画のエキストラ達の名もない顔、女に絶えずロワール川と故郷を思わせた太田川の流れ・・・この映画は、制作当時の広島をとらえた極めて重要な「記録映画」でもある。戦後からもはるかに遠ざかってしまった私たちにとって、また現在からなお遠い未来の人々にとって、1958年のヒロシマは1945年のヒロシマを理解するための大きな助けとなるだろう。

最後に、この物語はのちに新たな「記憶」も世に送り出した。制作当時にリヴァが撮りためた写真のネガがひょんなことから発見され、レネの書簡やリヴァへのインタビューとともに、ほぼ50年後の2008年に出版されたのである。

HIROSHIMA 1958

HIROSHIMA 1958

  • 作者: エマニュエルリヴァ,港千尋,マリー=クリスティーヌ・ドゥナヴァセル,Marie‐Christine de Navacelle,Emmanuelle Riva,関口涼子
  • 出版社/メーカー: インスクリプト
  • 発売日: 2008/11/01
  • メディア: 大型本
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Tu n'as rien vu à Hiroshima

Tu n'as rien vu à Hiroshima

 

※日本の装丁の方がイケてる

充実した内容により、マルグリット・デュラスの著作『ヒロシマ・モナムール』に次ぎ、この映画を理解するための重要なサブテクストとなっている。この本については別途詳しく紹介したい。

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