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いつも心にデカダンを。

【旅日記】アウシュヴィッツのこと・①

(企画・戦争をめぐる映画/旅 第一部 アウシュビッツ、カティンの森、そしてヒロシマ― ①)

ポーランドは農業大国である。牛乳、パン、ベーコン、卵、大げさでなく何を食べても美味しい。そして安い。

通りにあるスタンドでは、大きなプレッツェルが2ズウォティ(約70円)で買える。焼き立ては格別香ばしく、朴訥だが人を元気づける。この香りと目的地に向かう日の朝の光は、いまでもはっきりと思い出すことができる。

この旅の目的地、アウシュヴィッツ――ポーランド語ではオフィシエンチム――はポーランド北部の地名であり、ビルケナウ――こちらはブジシェンカ――とともに、ナチス・ドイツによって絶滅収容所が建設された場所であることは、誰もが知る通りである。いまはその跡地に博物館が建てられ、そこで行われたことを訪れる人々に伝え続けている。

私は2014年9月にここを訪れた。パリ滞在の合間を縫って企画した旅行だった。

国外から訪れる場合はクラクフかカトヴィツェに向かい、そこからバスを使う。私はEasyJetでパリ〜クラクフ間を手配し、市街すぐそばのホステルを2日分押さえた。

ここでクラクフやアウシュヴィッツに向かうときのことを少しと、これから数回に分けて書く事-アウシュヴィッツに関する個人的な記憶-についてあらかじめ振り返っておきたい。

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クラクフにはアジア人がほとんどいない。

CDGのシェンゲン協定国向けゲートでも既に予感していたが、いざクラクフに降り立つといよいよ見当たらない。

咄嗟に頭の中で、PET SHOP BOYSの『Single-Bilingual』が流れた。厭味ったらしいスチールドラムとPVの中の行列が低く低く意識を圧迫し、ニール・テナントの軽薄なボーカルで本来感じる必要のない寂寥がどっと押し寄せた。飛行機で隣のカップルがいちゃついていたことも原因かもしれないが、とにかく「自分は一人だ」と強く思った。久しぶりだった。パリでこんなことは少しも思わない。のちに訪れるカンボジアでも、一度もなかった。ただクラクフだけが9月の風と淡い午後の光で、ひとを一気に意識のリンボに押しやってしまったのだった。

物珍しさで買ったプレッツェルをしっかり握ったり、市街へ向かうバスから景色を眺めても、茫漠とした気持ちは続いた。なぜそうなってしまったか、本当にわからない。もしかして隣のカップルが本当に堪えたのだろうか?

そうしてもやついているうちに、クラクフ中央駅に着いた。これが空港と違って、わりと明るい。駅とモールが合体しており、明るい照明の構内を歩くうちに、ぶれた意識が少し元に戻ってきた。時間もないし気を取り直して、バスターミナルで翌日のアウシュヴィッツへ向かうバスの時刻を尋ねる。窓口のおばちゃんが「エイト、サーティ(八時半)、ファイブなんとか(乗り場のことだったと思う)!」と羅列していくのを必死に書きつけると、取りあえず今日はやるべきことを終えた気がした。

結局、ホステルへ向かうタクシーのドライバーがいやに陽気だったこと、ホステルの人々もフレンドリーで賑やかしく、なによりテーマパークのような旧市街(世界遺産)のきらめかしさによって、茫漠とした感じは完全に消えてしまった。後ほど部屋に戻り、ベッドに身を横たえて考える。

――あのリンボはなんだったのだろう?どこにいってしまったのだろう。

前述の通り、クラクフにはアジア人がほとんどいない。

一度、ホステルの食堂で同胞(?)を見つけたとき、どちらともなく微笑み合ってしまったくらいだ。それくらいいない。

その印象を裏付けるように、アウシュヴィッツを訪ねる日本人は年間10,000人だという話を耳にした。韓国人はもう少し多いらしい。中国人は分からない。

こうやって書きながら少し途方に暮れるのは、アウシュヴィッツのこと、そこで見たものの壮絶さを描こうとしながら、結局思い出されるのはポーランドのあまりにものどかな風景であるということだ。延々と続く緑の眺めは、小型バスの窓からは優しい紙芝居のように思われた。ときおりバス停に留まると、メタル系バンドのチラシがぞんざいに貼られて可笑しい。

一方で、ひとつひとつ眼に刻むようにたどった施設、収容者の遺品、団体で来たユダヤ人の高校生たちの、制服に描かれた六芒星、そういったものは少し強すぎる光に覆われた、古い写真のような雰囲気をもって脳裡によみがえる。

現地でも参ったのは、 そののどかさがアウシュヴィッツへたどり着いても続いたことだ。博物館のエントランスの前では、人々を怖がらせないよう、優しく出迎えようとして樹々が繁り鳥が鳴いている。木の葉が光を反射して、幾重にも光が折り重なって、ただただ明るい。ときには優しい風も吹く。

ここで何が起こっていたかなど、何も聞かされなければ誰も知り得ないだろう。それはつまり、様々な努力があってこの風景が取り戻されたということなのだろう。当時を映したこの場所の映像に、飛び散るような光や風は少しも見られなかったのだから。

 

ゆっくりとエントランスに向かいながら、もう一度確認する。

人の世にあって、深く重い業と闇は、時間がそれを浄化するだろうか?

否、否。人の世に限って、絶対にそんなことはない。

公園のような表の姿を持つこの場所も、地面の奥深くでは未だ闇をかこって、そこに業が、微睡んだような半眼で、生きた人を見つめているはずなのだ。

気持ちを再度引き締めて、チケット売り場に向かった。献花の為にはバラを一輪買った。

現在、博物館内はガイド無しでは見学が出来ない。このため、入場者は言語別のガイドチームに入る。日本人のガイドもいる(とても有名な方だ)が、このときは英語を選んだ。そして、英語のチームに振り分けられたとき、ポーランドで初めて日本人を見つけた。

そしてレシーバーのボリュームを合わせ、体のどこかしらに見学者印のステッカーを貼れば準備完了だ。 

しばしの混雑ののち、やっとガイドの音声が耳に届くと、私たちのチームは前に進み始めた。砂利が少し混じった、乾いた音のする道だ。まずは有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」の門に向かっているのだ。

あとから知ったことだが、このアーチは2005年に何者かに破壊され、当時私が見たものはレプリカだったようだ。そしてレプリカでないこのアーチをくぐった人の多くは、二度と家に戻れなかった。終盤には、多くの人がここをくぐることさえなくどこかへ消えて行った。

ガイドの説明が沿って、いよいよ施設へと足を踏み入れる。私もアーチをくぐる。

 ※本企画の次回更新は映画評『夜と霧』(1955/アラン・レネ)7/24更新予定です。

 

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