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いつも心にデカダンを。

【旅日記】アウシュヴィッツのこと・③

 (企画・戦争をめぐる映画/旅 第一部 アウシュヴィッツ、カティンの森、そしてヒロシマ― ④)

アウシュヴィッツのこと・②から続く

11号棟は1階がSSの執務室で、地下には目的に応じた牢がある。地下のためか場所柄か、非常に息苦しい。見学する人も多く酸素が足りないのだろう。様々な要因で、喉元も胸もずっしりと重くなる。

地下階にある牢は下記の通り:1.立ち牢。90センチ四方の極めて狭い空間に複数人を長時間詰め込む。もちろん座ったり休んだりすることは出来ない--死ぬまで立っていなければならないのだ。2.飢餓牢。文字通り水も食糧も与えず、死に至らしめる。3.特別労務班(ゾンダーコマンド)の牢。

飢餓牢には、ポーランド人司祭マキシミリアノ・コルベ神父の碑がある。1941年の夏に起きたレジスタンス脱走への報復として、SSが囚人を無作為に選びこの牢に入れようとしたが、そのうちの1人に対し彼が身代わりを申し出たのだ。この提案は受け入れられ、コルベ神父は牢に入れられた。

死を待つ間、彼は讃美歌を歌って過ごしたという。そして2週間経っても神父を含む投獄者たちは絶命せず、最終的にフェノールの注入によって殺害された。

戦後、コルベ神父は同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖され(1982年10月10日)、さらにはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」のひとりとして像が立てられた(1998)。彼はいま、ジャーナリストや政治犯を守護する聖人である。

特別労務班の牢について。ゾンダーコマンドという呼称は、映画をよく観る方にも憶えがあるかもしれない。収容所での彼らを描いた作品として『灰の記憶』(’01・米)があり、最近では『サウルの息子』('15・ハンガリー)が記憶に新しい。彼らは、被収容者でありながら、同じ被収容者の遺体を処理するという過酷な業務を強いられ、一定の期間を経ると秘密保持のためSSにより殺害された。この牢はその期間が終了し、抹殺される日を待つ彼らの場所である。(大戦終盤にはビルケナウでの労務班の人数が非常に増え、彼らはガス殺ないしは少し離れた場所で銃殺という形が取られたようだ)

11号棟から出ても、やはり重苦しい気持ちは続く。様々な資料が展示された27号棟を見学したあとは、集団絞首台というものを見ることになるからだ。これは文字通り、複数の囚人をまとめて絞首刑に処すための設備である。説明として処刑の様子を非常にリアルに描いたイラストも掛けられており、これが非常に恐ろしい。

ただ、皮肉なのか、ルート設定においてそうせざるを得なかったのか、この忌まわしいものとの対峙の後には、他でもない、アウシュヴィッツ初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス(※2)の絞首台を眺める一幕がある。家族を呼び寄せ、この付近に住居も構えていたヘスは、終戦後ポーランド政府の裁判により死刑判決が下され、自分の指揮下で多くの被収容者が殺害されたこのアウシュヴィッツで絞首刑となった。

これまで見た施設内に満ちた異常なほどの狂気と怒り、深い悲しみに反し、少し丘状になった場所にあるヘスの絞首台はあまりにも卑小で、寂しげですらあった。彼に関し何一つ擁護されるべき点はないと考えている自分でさえ、若干のセンチメントを呼び起こすような場所であった。

それもガス室に行くまでの話だ。

やはり見学のルートは考え抜かれているのだろう。アウシュヴィッツ=ビルケナウ・第一収容所の見学ルートの最後は、ガス室でしめくくられる。ヘスの絞首台を離れてすぐに目の端に入る煙突に近づくにつれ心がざわついていたが、とうとう来てしまったのだ。

当時の間取りと違って奥行きは広くなっているが、それでも強烈な圧迫感を感じる。四角い穴で空が切り取られていた。チクロンBを入れた穴なのだ。そしてその隣には、日ごと膨大な量の遺体を焼いたという焼却炉がある。

蛮行、暴虐、何と言っても足りることのない行いから70年近く経ったいまでも、なおこれほどの陰惨さが全体にしみついていた。何も思うことができないまま、ガイドに従ってガス室を後にした。

見学が終わり、疲れもあって少しぼんやりとしたが、担当のガイドから休憩時間とビルケナウへのバスの発車時間の案内がレシーバー越しにもたらされる――ここで私は最大の判断ミスをしたと思う。バスの発車まで時間があり、ビルケナウに行けばクラクフに戻るのが夜になると思い、このまま帰ることにしたのだ。

改めてインフォメーションセンターに行き、日本語版のガイドを買ったりこじんまりとした食堂をのぞいた後、敷地内の駐車場でバスを待つことにした。

ところが、日の明るいうちにクラクフに戻るという目的にもかかわらず、クラクフ行きのバスは待てど暮らせど来なかった。バス停(細長い標識が立っているだけ)の周りに人だかりができる一方で、それらしい車両は全く来る気配がない。秋の始まりで西日はそれほどきつくないが、なんとも言えない倦怠と若干の苛立ちが漂う。やがてビルケナウ発のバスもアウシュヴィッツから発車し、私は本当にクラクフに戻るだけになった。ここまでで2時間くらい待ったと思う。

そのうち、一人の中年が近寄ってきた。タクシー運転手のようで、「4人集まればXXズウォティ(金額を失念)」と持ちかけてきた。最初は皆一様に顔を見合わせるだけだったが、20分くらいして私を含めた4人が揃った。取引成立。

はじめてのポーランド、はじめて(で最後になることを願いたい)のアウシュヴィッツ、帰りの道が来た道と同じかどうかもまるで分からなかった。タクシーの運転手は、なかなか愛嬌のある人だったことを覚えている。クラクフに着いてから乗り合わせた白人に中央広場への行き方を説明したことも。自分も昨日来たばかりで、もう明日にはパリに戻るのだけれども…。

くたびれ果てタクシーの中で流れてゆく景色を眺めていると、どことなく既視感のある風景が目に入った。森だ。それも、とても鬱蒼とした森。頭より胸のあたりが揺さぶられているような気がした。(つづく)