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いつも心にデカダンを。

【映画】牯嶺街少年殺人事件(1991, 台湾)

監督:エドワード・ヤン 脚本:エドワード・ヤン他 撮影:チャン・ホイコン 出演:チャン・チェン(小四) リサ・ヤン(小明) ワン・チーザン(王茂/小猫王) クー・ユールン(飛機) チャン・クォチュー(小四の父) エレイン・ジン(小四の母)


映画 『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』 予告編

あらすじ

60年代の台湾。少年小四(シャオスー)は、秀才にもかかわらず受験に失敗する。やむなく進学した夜間学校では早速不良の抗争に巻き込まれるが、一方で学生らしい日々も楽しんでいた。しかしある日、不良のボス・ハニーの彼女と目される小明(シャオミン)と出会い、運命的な恋に落ちる…。

とにかくスクリーンで観るべき作品

冒頭のカットはじつに新鮮で劇的で、これだけでも観る価値がある。作品の始まりを告げると同時に、この映画のすべてを語っているからだ。

これにより目覚めた物語はさらに驚異的なフレームワークにより、スクリーンの外の夜(現実)とスクリーンの中の夜(フィクション)をつないでしまう。このとき私たちはもう、60年代の不穏な台湾、他でもない牯嶺街(クーリンチェ)にいるのだ。その後も劇中の夜劇場の夜は絶えず呼応しあう。この感覚は、常に擬似的な夜から映画が始まるスクリーンでしか体験できない。

繰り返しになるが、冒頭の1カットにすべてが込められている。そこでエドワード・ヤンは作品と観客が同じ「闇」のなかにあり、さらに「光」を共有できることを示した。また、このシーン自体そのものが世界の創造(「光あれ」!)のようでもある。すなわちこれは、一つの物語に少年少女も時代の風も、ひいては宇宙すら封じ込め、観る者を当事者たらしめる、とんでもない作品なのだ。

まなざしの俳優、チャン・チェン

劇中では学校・少年・大人たちという重層化された夜=闇の世界を中心に、つかの間の逃避先になる昼の光、夜を照らす懐中電灯、また不安の中にも希望を持とうとする心の営み・・・、様々な「光」と「闇」が巧みに折り重なっている。登場人物はその圧倒的な質量にも呑まれることなく決然と立ち、その中心に小四がいる。

それに、何よりも、僕が彼に引きつけられたのは彼の目です。彼の目の表現にはすごく深いものがあるし、また時には、何かはっきりとは形にならない感情を伝えてくれたんです。

『エドワード・ヤン、語る 1991年10月東京』(梅本洋一『映画が生まれる瞬間』所収、映画芸術2017年春号掲載)

主人公でありながら、張震が演じる小四のセリフは極端に少ない。やたら饒舌になるのは、中盤以降、彼の中の光と闇の均衡が崩れてからだ。それまでは筋違いで不良に殴られようが、人違いで不良に連れ出されようが、シマ違いで不良に(以下略)、一貫して寡黙である。その度に彼の眼は何ともいえない、戸惑いや当惑とも違う「何か」を表出するのだ。その眼に映すというよりは、身体の外に表出するこの「何か」で、前半の散逸しそうなシークェンスはその実しっかりと固着し、つながりを持っている。逆に後半では彼が饒舌になり、この「何か」を少年がもはや持たないことで間接的に物語の結末を示している。

現在の彼の活躍については改めて書く必要もないと思うが、本作以降のどの作品においても彼のまなざしは特別な印象をもたらしている。美男子なのでそもそもサマになるという話はさておき、とりわけ彼の眼が作品に重要な意味をもたらすのは、その演技にこの「何か」の表出、ヤンが言及するところの「形にならない感情」が発現した時だと思う。(注1)

その点で、本作から17年後に公開されたキム・ギドクの『ブレス』(2008,韓国)は彼の「まなざしの演技」の一つの極致だろう。言葉の壁という現実の要因にせよ、声を失った人物という設定でチャンの表現は極限まで研ぎ澄まされていく。(注2


キム ギドク新作「ブレス」 トレイラー 

やりきれなく切なく、けれども優しい

実際の事件に想を得た以上、今回の作品で「少年がガールフレンドを手にかける」というモチーフは変えられない。それでも観る者は考えてしまうだろう。「小四が小明を殺さずに済む未来もあり得たのではないか?」と。ハニーが帰ってこなければ、そして死ななければ、小四が退学にならなければ…?観客の望みも空しく、それらは必然に支えられて実現し、悲劇の背中を強く押す。とりわけ私には、217襲撃で小四が山東の死をその懐中電灯で照らさなければ、そこまで大きく彼の心は闇に振れなかったのではないかと思われる。それもまた世界の創造者たるヤンが、来るべき瞬間のために小四に与えた運命なのだけれども。

このように、世界は残酷で苦しい場所だ。「社会は不平等で、運の悪い人が多すぎる」(劇中より)。それでもどこか、優しく美しいとも感じてしまう。この映画を繰り返し観たくなるのは、創造以降も依然混沌とする世界を照らし続けるよう、この映画を通しヤンが人々に対して切実に要請しているからで、その真摯さと優しさに胸を打たれるからだろう。

都内ではまだ上映している場所もあるので、東京近郊に住んでいて少しでも興味がある人はすぐに観に行くのが良いと思う(私は現在3回目の鑑賞を検討中…次いつ観られるか分からないので)。 

(注1)逆にそういう内省が彼の演技に現れない(あるいは求められない)とき、彼の演ずる役はむしろ若干浅薄に見える。また、製作側もそれを見越してキャスティングすることが多いと思う。

(注2)一方、ウォン・カーウァイについては彼との初仕事『ブエノスアイレス』(1997)において、彼に「目より耳が良い」という設定を与えることでカーウァイお好みの「声のドラマ」に俳優を寄せていったが、のちの『2046』(2004)では恋人の不実を嘆く若きドラマーを演じ、チャンの目からこぼれた涙は時空を超えてほとばしる。これはカーウァイ流の「まなざしの演技」のアレンジと言ってもいいかもしれない。(と同時に、チャンが「目が悪い」ことは『牯嶺街〜』内でも言及されており、公開時に来日した際も眼鏡をかけていたことからも、案外事実をベースにした設定なのかもしれないとも思う)