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いつも心にデカダンを。

【映画】『夜と霧』(’55・仏)※グロ表現有

 (企画・戦争をめぐる映画/旅 第一部 アウシュビッツ、カティンの森、そしてヒロシマ― ②)

夜と霧 Blu-ray

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監督:アラン・レネ 脚本:ジャン・ケイヨール(解説台本) 撮影:ギスラン・クロケ/サッシャ・ヴィエルニ 音楽:ハンス・アイスラー ナレーション:ミシェル・ブーケ

あらすじ

1955年。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の跡地を訪れたカメラは、かつて凄惨を極めたこの場所の過去をたどってゆく。カメラが収めた場所の姿とさまざまな記録、ナレーションで構成されたこの映像は、ナチスの台頭、収容所の建設、被収容者の連行と強制労働、さらにガス室の使用と遺体の処理、そして収容者の解放まで続き、観る者を時間旅行に導く。

記録に込められた記憶たち

被収容者の所持物を(取り上げて)積み上げた倉庫、男女を問わず髪を刈られた顔、穴だけの便所、病に倒れても紙の包帯しか巻かれない患者。人体実験が行われた部屋、人体実験の施された患部――女性のそれは、彼女が傷を晒す1秒前で次のショットに切り替わる。その一方で、所長や関係者の居住する屋敷の壮麗な内装、豪奢な暮らしなど。コラージュで次々現れる記録のつらなりに感情的な演出は無く、それだけに一つ一つの重大さ、苛烈さが伝わってくる。そして、はじめ遠回しだった死の表象は後半から急に直截的になる。脱出を図り鉄条網で感電死した遺体、首を切断された遺体とたらいにつめこまれた首たち、毛布あるいは紙として再利用される遺体、焼却が追い付かず、ごみのようにブルドーザーで埋められる遺体・・・夥しい数の死のヴァリエーションが怒涛のように現れる。

のちに紹介する『SHOAH』(1985・クロード・ランズマン)のような生存者・関係者の証言は一切無く、廃墟と化した収容所に立ち、稼働当時の写真と映像をひたすらつなぐ。このようにかつて行われた暴力(という言葉ではあまりに足りないが)の報告を淡々と行うこの映画は、第二次大戦とホロコーストに関する限りなく「純粋な」記憶ではないだろうか。

語り得ぬものとの対峙、忘却への抵抗

この作品は第二次世界大戦終戦後、ホロコーストについて制作された最初の映画の一つといわれている。第9回カンヌ国際映画祭(1956)にも出品されたが、’’西ドイツ大使の要請を受けた仏外務省から「友好国を侮辱する恐れのある作品」として出品を取り下げるよう命令され、コンペティション部門外での上映となった’’(Wikipedia「夜と霧(映画)」より)。

冒頭でミシェル・ブーケの声が問う。「(この過去を)映像で表せるか?」と。それは悲劇の発生から時間が経ったからではなく、有効な証言がないからでもなく、そもそもアウシュヴィッツとその他の収容所で行われたことの表現は何においても不可能だという、終戦後のヨーロッパ人の一つの思考を反映している。

’’アウシュヴィッツが出現するまで誰もアウシュヴィッツを想像できなかったように、アウシュヴィッツが滅んだあとも誰もそれを再び語ることは出来ない''

―エリ・ヴィーゼル(ユダヤ人作家)

この考えに賛同する者もいればそうでない者もいるだろうが、立場がどうであれこの「表象不可能」な「アウシュヴィッツ」は未だ多くの者によって描かれ、あるいは語られている。その中でもこの『夜と霧』は「語り得ぬもの」に当時としては最良の姿勢で対峙し、かつ叶えられなかったことを課題として観る者に示す傑作ではないだろうか。

導入部の牧歌的ですらある風景を観て、我々は途方に暮れるだろう。実際にアウシュヴィッツを訪れたときにも感じたことだが、収容所の辺りや内部に至るまで緑が生い茂り、良い気候の折には空も美しい。生きようとする意志の強さやそれを象徴する自然の営みは、ときおり過去を不自然なまでに覆い尽くしてしまうのだ。それは間違いではないが、人間の歴史においてはしばしば愚かさが自らを正当化する隠れ蓑にもなってしまう。我々が過ちをおかす限りは、繁みのなかから何度でも焼けた石を拾い上げなければならない。レネはその使命を自分の才能とともに正確に理解していたと言えるだろう。

アラン・レネ、観察と記録、そして記憶

本作以前もドキュメンタリー作品で頭角を現していたレネはこの後劇映画に活躍の場を移し、ヌーヴェルヴァーグに合流する。フィクションの世界でも記憶への強い関心は変わらず、『二十四時間の情事』(1959)『去年マリエンバードで』(1961)『ミュリエル』(1963)などを発表するが、なかでも『二十四時間の情事』は、広島の原爆投下についてヨーロッパ人の視点から取り上げながら日本人にも呼びかける点の多い傑作である。劇映画で成功を収めたのちもレネは自分が観察者、記録者であることを忘れなかった点で、他のヌーヴェルヴァーグに比べるとやや異質であるかもしれない(ゴダールは別格としても)。やがてレネは記憶という自身の主題から解放され新しいテーマを持つにいたるのだが、その話はいずれ別の作品で述べたい。 

(2017/8/1 加筆修正)

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